「アルテーミスの采配」という小説を書いたとき。
ふと、思ったんですね。
「〝わいせつ〟の定義は、〝チャタレー夫人の恋人裁判〟以来、変わっていないのに、あの判決がなんだったのか……と思うほど、今や、わいせつが溢れかえっている」と。
昨今、AV作品強要問題が話題になっていますが、AVの場合、強要以上に問題なのは、「猥褻」と「売春」という面で、限りなくアウト……という点だと思うんです。
なので、強要されていない、私は自分の自由意志で出演した(製作した)という方も、限りなくブラックに近いグレーなのです。
ちょっと例えが悪いかもしれませんが、AVに出演している、作っている……というのは、覚せい剤などのドラッグを販売している、または使用している……というのと同じぐらいの、犯罪に足を突っ込んでいる可能性がある……といってもいいかもしれません。
もっと言えば、スリ師や詐欺師、または贋作師が、自分の仕事にどんなにやりがいを感じていて、誇りを持っていたとしても、「有罪」になるのと似ているかもしれません。
なのに、それが今まで放置されてきたのは、多分、映倫とかビデ倫とかの組織を作り自主規制しているよ……というポーズを取ってきたからだと推測。
ちなみに、ビデ倫(日本ビデオ倫理協会)などは警察OBでなりたっているらしいですが、その審査が甘いということで、時々問題になり、今は解散して、なんちゃらという自主規制の組織に委託。
今、自主規制の組織がどうなっているかよく分からないんですが、その隙を狙って、「わいせつ」業界が無法地帯になっているのが、今。
なので、まるで「わいせつ作品」そのものが合法と思っている方も多いんですが、繰り返しますが、我が国のわいせつ基準は「チャタレイ裁判」の判決です。つまり、チャタレイ夫人レベルでも、アウト。
……ということで、日本のポルノや官能小説は、この判決ギリギリのところで、「表現」を工夫してきました。
日本の官能小説に比喩が多いのもそのせいです。
(前貼り……という小道具もしかり)
ですが、今。そんなことを無視して、直接的な表現やそのものズバリの行為を描く、映像や小説や漫画が溢れています。
で、オリンピック前、ここぞとばかりに摘発がはじまっているのですが、あまりに「わいせつ」を放置してしまったせいで、収拾がつかない感じもします。
中には、「法に触れるような悪いことをしている」という認識のない人も多くてですね……。
まるで、「大麻は体にいいから合法だ」と、勝手に思い込んでいる人のように。
いずれにしても、「チャタレイ裁判」。
官能的表現に携わっている人は、これを今一度、確認しておいたほうがいいかもしれません。
「いや、その判決は間違っている!」と思われる方がいらっしゃるなら、もう一度、チャタレイ裁判並みの裁判を試みる必要があるかもしれません。
そしたら、我が国の『わいせつ』の定義も、ひっくり返されるかもしれません。
ちなみに。
私の小説もエロ表現が多い作品がありますが(孤虫症)、一応、ギリギリのところで表現を抑えているつもりです。
あの小説は、エロを濃厚に描写しないと成り立たない作品なので、かなり苦労しました。
追記。
電車の中吊り広告。
路線によって、規制がかかっているようで、「●ックス」や「おっ●い」など、伏字になっているものを最近多く見かけるんですが、あれって、かえって気になるしエロだよな……と。
ボカシを入れると、何でもかんでも嫌らしく見える……と同じ法則です。
規制されると、かえって欲情をそそられるのが人間。
なので、ある程度の規制は必要だと、私は思います。
そのほうが、いろんな表現や工夫で、「エロティック」を追求できますからね。
それが、作家の腕の見せ所。
「なんでもかんでも、やってよし!」なんてことになったら、かえって、文化も芸術も生まれない気がします。
「サディスト」の生みの親、「サド伯爵」がまさにそうですね。
サド伯爵(侯爵)は、監獄という規制だらけの小さな場所に閉じ込められたからこそ、数々の小説を生み出すことができました。
フランス革命のドサクサで釈放されてからは、真面目な普通の小役人として生き、創作はしなかったようです。