ドラマ「嫌われる勇気」の主人公は、
アドラー心理学を100%体現できる「嫌われる勇気」を持った人物
で、
組織になじまない一匹狼タイプで、周囲の意見には耳を貸さず、常に自分が信じる道を行きます。時には、上司や捜査本部の方針に反することもありますが、本人はそれを悪いこととは感じていません。他人からの評価や評判を一切気にせず、自己中心的だと言われても全くひるまない、アドラー心理学を地で行く、いわば“アドラー女子”(青字は、ドラマ公式より引用)
なんだそうです。
……あれ? アドラーの心理学って、そういうのだっけ?
むしろ、反対だったような気がします。
「自分の利益(欲望)だけを求める自己中な人は、不幸な人生から逃れられない」的なことを説いていたような記憶が。
だから、共同体感覚を育てよう……的な?
そして、「特別な自分であるべき」という妄想(過剰な自意識)にとらわれていることが、不幸の元凶。
……私の解釈違いでしょうか?
私はそう解釈して、自分の作品では、過剰な自意識にとらわれて不幸な人生を突き進み地獄に落ちてしまう人の話を多く書いてきました。
反面教師的な意味合いとして。
「嫌われる勇気」、たぶん、このタイトルが、誤解を生むんじゃないかと。
この本、ずっと前にKindleで買ったまま積ん読だったんですが、真剣に読んでみます。
追記。
私の作品には、あまりに過剰なキャラがわんさか登場するので、「作者の精神状態が心配」などの声もいただいております。
ですが。イヤミス的な作品は、むしろ、普通の感覚を持ち普通すぎる生活を送っていないと書けないと思います。
作品の中に出てくるような過剰な精神状態では、逆に嫌な作品は書けないんじゃないかと。
私は、一人の人間として、この世に生を受けたからには、どうせなら幸せな一生を送りたいのです。
問題は、その幸せのありかた。
自分にとって幸せとはなにか? これが分かっていないと、他者から見ての「幸せ」ルールにとらわれて、迷走するんじゃないかと。そういう問いを投げかけるつもりで書いたのが、「殺人鬼フジコ〜」でした。
「嫌われる勇気」というのは、つまり、「かっこいい自分、理想的な自分、幸せそうに見える自分」という他者から評価(あるいは粉飾)を捨てて、自分が本当に幸せだと感じる人生を歩もうよ……という意味だと思うんですが。
で、「嫌われる勇気」を持つことで、自ずと「嫌われない人」になるんだと。
で。私の幸せとは何か。
「ああ、心が満たされているな〜 リラックスしているな〜」と思うのは、マリモさんとイチャイチャしているひととき。痛いところがどこもない健康状態。ご飯が美味しいとき。そして、「重版かかりました!」と担当さんと喜びを共有した瞬間。
この幸せをこれからも持続するために、私は今日も働いています。