先週の日曜日に最終回を迎えた「日本沈没〜希望のひと〜」。
実は、原作は未読なのです。昭和時代に映画化されたものをちらっと見たぐらい。
なので、原作とドラマの違いはよく分からないのですが、とりあえずは、ドラマとしての感想を。
「うん? なんだろう。この違和感は」
最初はとてもわくわくしていたんですよ。まるで「シン・ゴジラ」を見ているような興奮。でも、それも三回目ぐらいまでで。四回目ぐらいから、とにかく違和感が拭えない。
なんだろうなんだろう……と違和感を探っていくと。
「あ、そうか! 皇室のことがまったく描かれてないからだ!」と思い当たりました。
思えば、「シン・ゴジラ」でも、皇室及び天皇のことは完全にスルーでした。他のパニック映画でも、私が知る限りじゃ、完全スルーしているはずです。
言わずもがな、憲法第一条では、
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」
と謳われています。
言い換えれば、天皇なしでは日本国民は語れない。
ここまで重要な存在であるのに、ドラマや映画、小説などでは皇室及び天皇のことはきれいさっぱりスルーされてしまうのです。
(もちろん、戦争がからむ作品ではこの限りではないのですが)
では、実際はどうでしょうか。
東日本大震災の原発事故のとき、当時の総理大臣がまっさきに考えたのが「天皇をどこに避難させるか」だったそうです。
そう、これがリアルなんです。
ドラマ「日本沈没」も、現実に忠実に描くなら、まずは「天皇と皇族をどこに避難させるか。そして、日本が沈没したあとも天皇というシステムをどう継続させるか」を検討しなくてはなりません。
第二次世界大戦で敗戦しアメリカに占領されたときも、当時の政治家や有識者たちは「天皇」をどう守るかに心を砕きました。
これが他の国の支配者ならば、ヒットラーやムッソリーニのように捨てられるだけです。
でも、「天皇」はそういうただの支配者ではないのです。
「国体」そのものなんですよね。
つまり、「日本」そのものなんです。
だから、どうしても「天皇」だけは守らなくてはならない。
これが数千年続いた「ニッポン」のありかたです。
実際に権力がなくても、実際に富は持っていなくても、天皇はニッポンの核でありテッペンなんです。
なのに、パニック映画はもちろん、正義のヒーローものでも、みごとにスルーされてしまう。
たぶん、そのほうが、描きやすいからです。
だからなのか、どんなパニック映画を見ても、リアリティがなく他人事のように見えてしまう。
あの大傑作「シン・ゴジラ」でさえ。
仮に、「日本沈没〜希望のひと〜」で天皇の存在を描いていたなら、あるいは「シン・ゴジラ」を超える大大傑作になっていた可能性があります。
でも、それはとてつもなく難しい。
挑戦しようという人はなかなか現れないでしょう。
それが、日本のパニック作品の限界を生み出している要因なのかもしれません。